被害を受けた人が加害者を見て嫌な気持ちになるということは確かにあると思う。実際のところは当事者にしかわからないことで、第三者としてできることは可能性に対する配慮ということになってくるんだけれど、突き詰めると何もできなくなる気がする。
過去の行為そのものを擁護する事は無いし、それはそれとして扱われるべきと思う。つまり現在と過去は区別して語られるべきという事なのだけれど、ではいつまでが過去でいつからが現在なのかという問題が出てくる。禊はいつなのか。
ホロコーストをネタにするというのはかなりシビアだと思うけれど、コンテクスト無しにそこだけ引っ張り上げるのはフェアじゃない気がする。その切り取り方は話を大袈裟に盛り上げようとしていないか。
では大袈裟でなければ許容されるのか、と聞かれるとそれはやはり厳しい気はする。
記録されてなければ見逃されたのか?
「過去を現在の価値観で”評価する”ことはあっても”裁く”べきではない」というのは歴史に触れる者の共通認識だと思うけど、歴史的なレベルでの価値観の変化が、1世代の中で何度も起こりうるほどに早くなった現代において、我々が「生涯に渡って」無謬である事の難しさを感じている。
— 三崎律日@「奇書の世界史」発売中 (@i_kaseki) 2021年7月22日